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聖ペトロ・ユリアノ・エイマール司祭証聖者 St. Petrus Julianus Eymard C.     記念日 8月 3日


 19世紀に生まれ働き永眠し、教皇ピオ11世から福者の位をおくられたペトロ・ユリアノ・エイマールの如きは、先ず現代の聖人と称して差し支えない一人であろう。その店主に託された使命は、御聖体に対する一般信者の敬虔を深からしめることであった。
 彼は1811年フランスのグレノーブル市に程近い、ラ・ミュール市に生まれた。父は貧しい職人であったから、我が子の人並みすぐれて賢いことを知りつつも、十分学校にやることが出来ず、やはり手職を覚えさせるつもりであった。しかしペトロの幼い頃からの御聖体への尊敬をその心に植え付けた信心深い母は、彼が将来司祭になることを何よりも望んでいた。
 それは兼ねてまたペトロ自身の願いでもあった。しかし司祭になるにはどうしても学問がなければならぬ。で、彼は晩に仕事を終えてから、窃かに学生の友人を訪れ、その学校で学んで来たこと、わけてもラテン語などを習い覚えるように努めた。
 18歳を迎えるや、ペトロ・ユリアノは幸いに無原罪の聖母修道会に属する一司祭の世話で、同会に入ることが出来た。喜びに充ち溢れた彼は、遅れている学業を一気に取り返そうと、昼夜をおかず勉強したが、あまりにその度を過ごした為か、健康を害するに至り、心ならずも修道院を退き、保養の為家に帰らねばならなくなった。それで彼は教養不十分ながら、聖母の御助けを願って受験したところ2年後グレノーブルにある神学校に入学を許され、1834年23歳にして憧れの叙階を受けることが出来た。
 それからペトロ・ユリアノは同教区に勤め、5年を経た1839年、マリア会に入会し、種々の務めに精励した。彼が司祭としても御聖体に対する信心に極めて厚かったことはいうまでもないが、毎日ミサ聖祭を行う為に2時間ずつも霊的準備をした事によってもその一班が察せられよう。
 リオン市付近のフルヴィエという所に名高い聖母マリアの聖堂があるが、天主の御母を愛する心の深いペトロは、しばしばその聖堂に参詣して祈った。ところがそこで聖母は何回となく彼に現れ、特に御聖体崇敬を目的とする修道会の創立をお奨めになったので、彼もついにその気になり、マリア会を退きパリに行って、3人同志と共に御聖体会を始めたのである。
 この修道会の目的は第1御聖体を礼拝し、第2それによって我等の受ける数々の御恵みを感謝し、第3その中に籠もり給う主に対する人々の侮辱を償うにある。そしてそれを達成する為会員は永続的礼拝を行い、各自一日三回、即ち朝一時間、午後一時間、夜一時間、御聖体の御前に於いて祈りを献げる。最初彼等は別に使徒的な仕事に手を出さなかった。しかし後には事御聖体に関する限りその方面にも活動するようになり、例えば幼い頃受洗し、成人になるまで一度も御聖体を拝領しなかった人達にその準備をさせるとか、また御聖体拝領の美風を盛んならしめるため黙想会を開くなどにも力を尽くした。なお彼等はやがて婦人達の間に永続的御聖体礼拝を普及する為「御聖体の婢会」を作り一般有志を募って「御聖体後援会」を組織した。かようにしてペトロ・ユリアノはピオ10世教皇の提唱になる御聖体信心会及び万国御聖体大会の先駆者たる役を果たしたのである。
 その活動が体力を消耗したのであろう、彼は57歳で大病に罹り、1868年8月1日永遠の安息に入った。
 彼が創立した御聖体修道会は今世界に33の修道院を有し、約700の会員を擁している。

教訓

御聖体の信心を興すため天主に選ばれたペトロ・ユリアノ・エイマールは、無原罪の聖母会に入らんとして病に妨げられ、マリア会に入って止まり得ず、最後に主の聖旨なる御聖体会を創めてようよう心の平安を得た。「すべて天に在すわが父の聖旨を行う人こそ天国に入るべきなれ」というキリストの聖言は決して我等を欺かぬ。故に我等も常に心して天主の聖旨にそい奉るよう努むべきである。